山の想い出  


剱岳 長次郎谷 『剱岳 点の記』の舞台

 若い日の山では、よく停滞した。涸沢の夏は雨が続き、設営した時は満杯だった天幕が次々と撤収され、一週間たらずの間にとうとう数張りとなってしまった。上高地への道路が決壊し不通になった年だ。
 南アルプスの荒川小屋でも二三日停滞した。することもなく唄ばかり歌っていた。その頃の山の歌は口伝が多くいまでも幾つも覚えている。
 剣沢でも台風の襲来で、まともに行動できた日は数日だった。そんな中で登った八ツ峰からの剱岳である。この夏の映画の舞台にもなった。

  7月の大雪山系トムラウシでの遭難は痛ましい。同じ新田次郎の作品「聖職の碑」を思い出す。木曽駒への戦前の中学生夏山集団登山での遭難を描いた小説だが、今回とよく似ている。
 停滞して天気の回復を待てば確実に下山できたであろう。悪天候の中を行動せざるをえない”既存の行程”が遭難となった。停滞は時に命を救う。  2009.7記

 

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南アルプス残照  学生の頃の3月、大菩薩の山小屋で番人を一カ月程やったことがある。空気が澄みきった夕暮れ、小屋から15分程のユートピアの丘と自分で名づけた小さな丘によく行った。南アルプスの連嶺が甲府盆地を隔てて展開する。大菩薩からは富士山がすばらしいが、南アルプスは当時すでに登っていたせいか、より親しみを感じた。右より甲斐駒、北岳、間の岳、農鳥、塩見と三千米級が連なる。
 その頃の大菩薩は車道は無く、烈石からの登山道が主で、週末以外は登山者は殆ど訪れない。晴天が続く時期だが、時に大雪の日もあった。彼岸を過ぎると周りの白樺林が春らしくなり、気温が氷点下6度を越えると暖かく感じたものだ。
 山を離れる日、春の気配の日川林道を、とぼとぼと初鹿野まで辿った。まだ日川(にっかわ)にダムも何もない頃の想い出である。

付記 現在の地名では日川は、”にっかわ”から、”ひかわ”に、初鹿野(はじかの)は駅名が甲斐大和に変わった。にっかわは武田家滅亡の三日血川”みっかちがわ”から転じた地名と言われ、初鹿野も川中島で討死した武田二十四将の姓でもある。また笹子峠を間にはさみ初狩とならぶ旅情を誘う地名だっただけに残念である。

 

 


 金峰山(2595m)へは、増富、金山平からが当時は主ルートであった。無人の大日小屋で泊まり、翌朝山頂を目指す。樹林限界を越えると、行く手にはこの山のシンボルである石塔が招く。
 この写真は頂上から戻る路で撮影した。自分の踏跡だけが残る2月の稜線である。

 

 


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黒班山からの浅間山 11月上旬

 山での体験や光景は、その時は感動したはずであろうが、何年もたつと、想い出すことのできることが多いわけではない。浅間山は二度訪れているが、二回とも強烈な印象を残した。
 初めて訪れた時は、梅雨の時期で、風雨がひどく細かい砂礫が強風に飛び皮膚を打つ、風向きによっては噴煙の臭いが迫り、怖くなって前掛山の手前で引き返した。登山禁止の時期だったような記憶がある。
 晩秋に訪れたときは冠雪の頃で、小浅間から頂上へ達し黒班山へ再び登った。そこから見た火山襞に新雪を引いた浅間山の姿はいまも忘れ難いものがある。

 

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尾瀬 1967年秋

 かつて盛秋の尾瀬を山友と訪ねた。
 その日は、至仏山から北へ伸びる山稜を辿り、日崎越に達し、猫又川に下ろうという計画だった。
 至仏山頂の岩石帯から暫くで樹林帯に入ると、踏跡がおぼつかなくなり殆ど前に進まなくなった。尾根筋はやや幅広く、利根側に入り込むまいとの意識があるせいか、展望もない紅葉が混じる樹林帯をかきわけて進むうちに、気がつくと尾瀬ヶ原に流れ下る沢の音が聞こえるあたりまで高度を下げていた。
 秋の陽は西に傾き、結局その沢に沿って下ることになった。緩慢な沢だが滑滝を懸け、側面の草付にロープを使ったりしながら、なんとか光が残るうちに柳平湿原と思われる一角に下りついた。
 刻々と光が失せてゆく小湿原の夕景はいまも記憶に残っている。
 現在、この付近は入山禁止となっている。

 上の写真は至仏山北稜から紅葉の猫又川流域、左奥の山は平ヶ岳。

 


穂高新雪

  この頃は、山へ向かうことに疑問を感じていた頃だ。10月中旬、穂高から常念山脈と、一人小テントでの日々を過ごす。思っていたとおり行程の途中で降雪が来る。すばらしい景観となったが、さほどの感動を覚えない自分がそこにいる。その後、若き日の山から遠のいた。

 

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